真田昌幸殿は私たちを迎えるために岩櫃城内に「御殿」を作っていたそうです。武田氏滅亡後は「潜龍院」となり、廃城後に「顕徳寺」に移築されたといいます。情勢が悪化したため岩櫃城には行けませんでしたが、よいお城ですね。
—北条夫人(武田勝頼夫人) (@hojo_fujin_)
出浦昌相 信濃埴科郡の豪族。村上義清の一族で武田氏に仕える。武田氏滅亡後の天正壬午の乱では織田家臣の森長可を支援したため上杉氏に追われ真田氏に仕えた。透破の棟梁として知られ、武田氏や真田昌幸の元で活躍したと言われているが、忍城攻めの活躍を誤伝したものとも言われる。
—真田の武将紹介bot (@888nedu)
依田信蕃 信濃佐久郡の豪族。武田家臣時代は二俣城や田中城を守備し徳川軍相手に奮闘する。そのせいで武田氏滅亡後、処刑者筆頭候補に挙げられるが家康により匿われる。その恩に報いるため天正壬午の乱では北条軍相手にゲリラ戦を展開し真田昌幸を味方に引き込む。昌幸の家康大好きverみたいな人。
—真田の武将紹介bot (@888nedu)
春日信達 武田家臣。高坂昌信の次男。武田氏滅亡後は森長可に従うが本能寺の変後に上杉氏に寝返ったため長可に人質の息子を殺されている。天正壬午の乱ではかつての同僚真田昌幸を通じて北条氏に内通するが、内通がバレて殺害される。これにより真田昌幸は心置きなく勢力を伸ばすことができた。
—真田の武将紹介bot (@888nedu)
曾根昌世 武田家臣。奥近習六人衆の一人。昌幸の同僚で昌幸と共に信玄に我が目の如しと評されるがこの逸話の真偽は不明。武田氏滅亡の際は早くから徳川氏に通じていたらしい。その後蒲生氏に仕え会津若松城の縄張りに関わったという。
—真田の武将紹介bot (@888nedu)
2022年18城目の攻城は、小山田信茂の詰城、岩殿城🏯 勝頼が自害し武田氏滅亡のきっかけとなる最後の一押しの舞台。昨夜急遽行く事を決めたのだが日没と降雨を避ける為1時間早く行動して正解、下山と同時に降り始めた。それにしても底がツ… https://t.co/Fvc7oo5lw8
—かねあき (@kanne777)
【小幡信貞(1540-1592)】武田家臣。憲重の子。三増峠の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠合戦といった主家の主な戦に従軍したが、武田氏滅亡後は織田氏に従属。神流川の戦いの後に北条氏に降ると小田原征伐では小田原城に籠城し、戦後は縁のあった真田昌幸を頼り、その下で余生を過ごした。
—だいたい戦国紹介bot (@sanrakuken)
鎌原幸重 幸定の子で一説には信綱昌幸の従兄弟。第四次川中島で討ち死にしたとも、武田氏滅亡後の真田信之と北条軍の手子丸城攻防戦で前備をうけおい討ち死にしたとも言われる。
—真田の武将紹介bot (@888nedu)
【新府城について2】 韮崎が甲斐の府中であったのは正味2カ月、私達が在城したのは43日に過ぎません。巷説多くの人夫と資金を使って新府城を築き、材木を国衆木曾氏に負担させたことで木曾義昌の離叛を招き、武田氏滅亡の原因となったといわれますが、新府城築城は誤りだったのでしょうか?
—武田勝頼 (@t_katsuyori)
また、古府中の狭さも府中を移さねばならない理由の一つでした。武田氏滅亡後甲斐を手に入れた徳川家康は一条小山に縄張りして甲府城を築かせました。江戸時代の甲府はこの城を中心として広がり、躑躅ヶ崎館を核に据えた古府中は甲府のほんの一角に過ぎなくなりました。
—武田勝頼 (@t_katsuyori)
#アライさん史跡散策部 #諏訪上原城 諏訪上原城!!元々は諏訪地方一帯を治めていた諏訪氏の本拠。諏訪氏滅亡後は武田氏の諏訪郡代が在城する拠点城郭となり、武田氏滅亡後は廃城となったのだ。主郭背後の大堀切や主郭下の金比羅神社からの眺望… https://t.co/1adChI1oJ5
—城ピさん (@jirouwohikaeru)
#アライさん史跡散策部 #要害山城 要害山城!!甲斐国を統一した武田信虎が、躑躅ヶ崎館の詰城として築いたお城なのだ。武田信玄はこの要害山城で生まれたとされているのだな。武田氏滅亡後、徳川氏や豊臣配下の武将達もこの城を改修して使って… https://t.co/c28GiyIN1X
—城ピさん (@jirouwohikaeru)
【禰津政直(????-1597)】武田家臣。元直の次男。法名に松鴎。海野平の戦いを経て海野氏が滅びると父が武田氏に従属した一方で上野へ落ちたが、後に武田家臣に列すると北信や上野の戦線に従事した。武田氏滅亡後は徳川氏に属し、根津流鷹術の鷹匠として名高かったことから厚遇された。
—だいたい戦国紹介bot (@sanrakuken)
松岡城址(長野県高森町) 5つの大きな曲輪と深い堀を持つ連郭式の山城。松岡氏が代々の居城としていた。松岡氏は武田信濃侵攻で武田氏に服従。三日月堀があったと伝わるとのことなので、城は武田氏に重要視されたのかも。武田氏滅亡後は徳川氏に… https://t.co/yOcwFQYsbN
—あさぴんf (@asakefukutani)
平山先生の武田三代買ったはいいがまずは新名先生の不屈の両殿を読み終えねば 武田氏滅亡?知りませんねそんな子は(もうどこまで読んだか忘れた)
—伊東三位入道 (@itosamminyudo)
142、長野県松本市にある松本城。 戦国時代小笠原氏が武田信玄に攻められ逃亡。信玄は馬場信房を置き信州経営の拠点とした。天正10年武田氏滅亡後織田信長は小笠原長慶を城主とし改修して松本と改めた。天正18年徳川家康の関東移封に従い… https://t.co/WjWpfWvlOm
—山城守入道 (@sanemi18711)
平山優先生の『武田氏滅亡』で、天正九年秋の武田・里見同盟の顛末を確認。 新井先生は同盟が機能して里見が北条方の正木を攻撃したとする。平山先生は里見の動きは内訌の一環に過ぎず、結局が里見は北条攻めを行わなかったことから、同盟は機能… https://t.co/tDKyhjEjdX
—太田資正と中世太田領の研究 (@medieval_oota)
何で武田軍は画像の左側に布陣したのかな、、、車でまわってたら戦いのあった所ってけっこう狭くて、関ヶ原とかと比べたらすごく密集した戦いになると感じます。さっきから【武田勝頼の心の内に分けいってみよう】という英雄たちの選択のあの声が頭… https://t.co/rqPNQniczy
—Hiro (@Hiro35306230)
@HIRAYAMAYUUKAIN 自分のような素人に詳しく教えて頂きありがとうございます!凄く嬉しいです、さっそく布陣図と先生の教えて頂いたのを見ております、著者長篠合戦と武田勝頼読ませていただきます( ;∀;) 今武田氏滅亡… https://t.co/mXkN60v3v2
—Hiro (@Hiro35306230)
@HIRAYAMAYUUKAIN 以前英雄たちの選択で、中野先生が運のない可哀想な人って仰られてたのが凄くわかります。その中で必死にもがいて出来る限りの事をしようとして、それでも最後は滅びてしまう、まだ武田氏滅亡途中ですが武田勝頼… https://t.co/Z7OwvV3cOX
—Hiro (@Hiro35306230)
